愛護会設立の経緯

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丹頂鶴|タンチョウ鶴

昭和38年の夏は冷夏で釧路地方の農作物は不作であった。阿寒町の畑作物も不作で、とりわけ、タンチョウの餌になるトウモロコシが特に収穫不良であった。
飛来してきた鶴達に餌が十分供給できず、阿寒中学校のツルクラブ員にとって給餌活動でエサ不足で困っていることをNHKが知って全国放送をすることになり、ツルクラブ員の給餌活動と飛来地の餌不足の様子がテレビで収録された。

昭和39年1月8日夕方6時の子ども向け番組「こちら、ワンパクテレビ局」がテレビ放送された。
テレビの反響は大きく、タンチョウを愛する子どもから老人、個人、学校、団体で餌となるトウモロコシやドジョウ等の現物が送られてきたり、阿寒中学校ツル クラブ宛に賀茂鶴酒造さんをはじめ多くの方々から「タンチョウ鶴を助けてください。餌代に」と毎日のようにお便りと現金が送金されて、昭和40年11月末 で700件にも達しました。

当時のツルクラブ担当伊藤教諭は校長、教頭とも協議して、学校としても受入れと給餌の限界に達したのでPTA会長でもあり、町社会教育委員長であった吉田勝美氏を訪ね、対策について相談した。
教師の鶴日記には「11月8日付の毎日新聞で文化財保護に民間グループを育成する文化省案を見て、生徒によるタンチョウ保護にも限界があり、どうしても地 元の大人の手による保護対策(例えば餌用トウキビ畑の借り上げ問題など、又、善意のツル基金の使用など)の必要から、町教委、藤沢社教主事と協議、阿寒町 タンチョウ鶴愛護会の会則原案をつくり、発起人代表に社会教育委員会の吉田勝美氏を中心に、役場飛来地域の小中学校長、給餌人によって構成される愛護会が 設立されました。
鎌田校長は理事、記事に伊藤がなると記されて設立年月日を昭和40年11月30日となった。

当時、釧路管内には タンチョウ鶴保護団体はあったが、阿寒町の場合は地元飛来地で、すでに個人的に給餌をしたり、昭和32年4月に阿寒中学校長として赴任された大井健次校長 の発案で結成されたツルクラブの活動が教育関係者や報道機関から他明く評価され、歴代の校長が引き継ぎ、教師も生徒もタンチョウ鶴への愛情から活動が地道 に続けられてきた。
愛護会の名称は、地元有志の善意、教師、生徒の愛情、「ツルに餌を」と餌と餌代を送られてこられた全国のタンチョウ鶴を愛す人々の支援協力があったればこそできた会であることを銘記して名称がつけられました。

タンチョウの餌不足を救って下さった全国の善意の方々には「タンチョウヅルの里より」を発行として礼状とさせていただき、タンチョウをもっと知りたいというお便りに、鶴の恩返しではありませんが、「日本の鶴」の発行となった次第です。